2011-09-19

心のマザー

短編小説「心のマザー」連載中です。)

目を開けると、私はベッドの中に横たわっていた。ここはレースで飾られた洋風の部屋で、天井には天使の絵画が描かれていた。
トントンとドアをノックして、一人の女性が入って来た。遠い遠い記憶が、渦を巻きながら蘇って来る。おそらくこの人は、私のお母さんだろう。いや、お母さんに間違いない。
「起きたのね、ナタリー。急に倒れたからびっくりしたけど、先生に診てもらったらなんでもないそうだったから良かったわ。ここのところ、忙しかったから疲れが出たのね。気分はどう?」
微笑んで答えた。「もう大丈夫。」
「良かったわ。でも今日はゆっくり休んでいなさい。」と言って、母は部屋を出た。
目覚めてから完全に頭が冴えて、もう眠れそうになかったけど、おとなしくベッドに横たわることにした。
まっすぐ前を見つめると、天井の天使が微笑みかけてくれる。
かぜをひいて寝込んだ時はいつも、1日中、天井の天使たちと会話をしていた。
寝ているだけの24時間はとても長かった。そうして、いつからか天井の天使たちと会話をするようになったのだ。

翌朝目覚めると体調はすっかり良くなっていて、元気な声で母に挨拶をした。
「おはよう。もうすっかり良くなったよ。」
「元気になってよかった。今日は演奏会の練習に行けそうね。」
「うん、もうすぐ本番だし休んでいられない。行ってくるね。」
と言ってハープを持って家を出た。
ナタリーは幼い頃から弦楽器が大好きだった。きっかけは4歳の頃、バイオリン奏者の父のクラッシックコンサートを見に行った時から。帰り道、自分も演奏したいと言ってどの楽器にするか1週間悩んだ上で、ハープを選んだ。童話に出てくるハープを弾く人魚に憧れて、ハープに決めたのだ。4歳からハープを弾き始めて、ちょうど今年で10年が経つ。
父の楽団は、大人57名で構成されていた。
近頃、隣国で戦争が始まり、多くの成年男性が兵士に召集され、楽団の男性メンバーは父を含め、ほとんどが徴兵されてしまった。残ったメンバーは、女性24名と、男性6名。
そこで、団員補充に14歳以上が入団できることになった。
1か月ほど前、入団試験に合格し、私もこの楽団のメンバーとなった。
1週間後には、新楽団初の演奏会がある。その日に向けて、指を赤くしながら毎日練習に明け暮れていた。

午前の練習を終えてお昼休み、私はいつものように家から持って来たサンドウィッチとお水を持って、小高い丘へと向かった。そこには1本の大きな木があった。その木はまるで、長年この土地で生きて来た者達の全ての魂が詰まっているように感じられた。葉は鮮やかな緑に生い茂り、幹は見たこともないほど太くがっしりとしていて、見つめているだけでその生命の力を与えられているような、そんな感じがした。私はいつもこの大木の下で昼食をとっている。ここにいると、大きな安心感に包まれる。すぐ隣の国で、いま戦争が起きているとは思えないくらいに、ここはとても静かで穏やかな空気に包まれている。ここから眺める山も湖も、ただ静かに佇んでいて、ずっとこの土地を見守っているように感じられた。

昼食を食べ終えると、すぐに練習室へと戻った。まだ誰も戻っていなくて時計を見ると、午後の練習開始まであと15分あった。ハープを持って個人練習を始めようとしたところ、バイオリンの男性が1人戻って来た。眼鏡をかけていて、細身で色白、一見気弱そうに見えるけど、その眼鏡の奥の瞳はどこか強さが感じられる。
「カミーユさんの娘さんだよね?僕はバジルって言うんだ。お父さんの弟子みたいなものだ。よろしくね。」
「はい、私はナタリーと言います。よろしく。」
「君はまだ若いのにいい演奏をするね。きっとお父さんの才能を継いだんだね。顔もよく似ている。」
「ありがとうございます。」と言い終わらないうちに、男性は横を向いて何度も咳込んだ。
「失礼。喘息持ちでね。おかげで戦争に行かずに済んだ。初めて喘息持ちで良かったと心から思ったよ。」
「大丈夫ですか?お大事にして下さい。」
「いつもの事だから大丈夫だよ。もう本番も近いし、さあ練習、練習。みんなが来るまでちょっとここのところを二人で合わせてみようよ。」と、バイオリンとハープが順にソロを取る箇所を指して言った。
私の演奏はまだ荒削りだったけど、二人の呼吸は合っていて心地よいハーモニーを奏でていた。バジルさんがうまく私に合わせてくれていたのだろう。ハープの音とバイオリンの音が重なりあって、晴れた大空へと向かって螺旋の橋を架けて行くような、そんなイメージが浮かんで来て、心は舞い上がり陶酔した。

今日も丸一日練習をして、家路へと着いた。うちに帰ると、母が何やら荷物をまとめていた。
「どうしたの?何かあった?」
「今日、報せが届いたの。ここももうすぐ戦乱に巻き込まれるかもしれないから・・・。いつでも出られるようにあなたも荷物をまとめておきなさい。」
「戦乱って?ここは山も森も湖も美しくて、鳥はいつも楽しそうに歌いながら飛んでいるし、通りからは子どもたちの笑い声が響いているのに、こんなに素晴らしい土地で戦争を起こすっていうの?そんなの・・・そんなの・・・。」泣きそうな私を抱きしめて母は言った。
「あなたの言う通りよ。どんな理由があったとしても、戦争なんて間違っている。私たちはいつも平和を求めて来たけど、結局、国家はまた争いを起こしてしまった。そして、国家が決めてしまったことは、もう私たちの力では止められないの。」
「そんなの嫌だ。私は何が起きてもここを離れないわ。」
母はもう一度、強く私を抱きしめて言った。
「ナタリー、あなたの気持ちはよく分かるわ。今日はもう休んで明日ゆっくり話しましょう。」

翌朝、何も言わずに家を出て、練習場へと向かった。いつもより早く着いたせいか、まだ人は少ない。壁に掛った時計を見ると午前の練習開始まで、あと30分ほどあった。私はその30分間、ひとり無心で演奏を続けた。
指揮者がやって来て、「おはようございます。」と声をかけられ、ハッとして時計を見上げると、開始時間となっていた。周りを見渡すと、団員はまだ半分くらいしか集まっていない。
「おはようございます。今日は人が少ないですね。」
「そうだね。残りのみんなはもう、どこかに避難してしまったのかな。まあいいよ。ここにいるみんなで最高の演奏会をしようじゃないか。」
「はい、がんばります!」と答えると同時に、自分の心に気が付いたように思えた。そうだ、私はこの演奏会で、いま自分にできる最高の演奏をしたいのだ。演奏会をやり切りたいのだ。
このままどこかに避難するのは嫌だ。せめて、この演奏会が終わるまでは。
今日ここに来ているみんなは、同じ気持ちだったに違いない。
いつもは無口な一人の女性が、静かに立ち上がり、話し始めた。
「何があっても、私は演奏を続けます。たとえこの楽団が私ひとりになったとしても、私は演奏を続けます。」
他の男性が立ち上がり、一つ咳をして、話し始めた。振り向くと、バジルさんだった。
「僕も同じ気持ちです。この喘息がなければ、今頃戦乱の中、息絶えていたかもしれない身だ。
でも、僕は現にいまこの楽団にいて、生きている。この身は全て、音楽に捧げて行きたいと思っている。この土地を愛し、まだここに留まる人たちもいる。僕はその人たちに、音楽を届けて行きたい。」
一人の女性が立ち上がり拍手をし、また一人の女の子が拍手をして、次第にみんなで立ち上がり、大きな拍手が広がった。

「ただいま。」トーンの高い元気な声が吹き抜けの天井まで響いた。まるでいつもと変わらない日常のように時が流れている。
「おかえり、ナタリー。今日も遅くまでお疲れ様。なんだか元気そうね。今日の練習はどうだった?」
神妙な面持ちで言った。「お母さん、私・・・演奏会が終わるまではここに残ることに決めたの。わがままかもしれないけど、これだけは譲れないんだ。お母さんがどんなに止めても、私はここに残って、楽団のみんなと最高の演奏会をやり遂げようって決めたの。」
一つ息を呑み込んで母は言った。「・・・そう。あなたの気持ちはよく分かったわ。演奏会、見に行くからがんばってね。楽しみにしているわよ。」ニコッと笑って、肩を叩いた。
壁に立て掛けられた父のバイオリンが、部屋の中を見守るように佇んでいる。
父が今ここにいたとしたら、きっと私と同じ気持ちだったに違いない。

演奏会の前々日、数名の兵士が家に訪ねて来た。
「こんにちは。まだ避難されていなかったんですね。この辺りもそろそろ危険になります。
今日中にはここを出て、どこか遠くへ避難して下さい。」
「はい、荷物はまとめてあります。早いうちに出るようにしますね。」と母が言った。
「それでは!」ピシッと綺麗な姿勢で敬礼をして、足並みを揃えて兵士達は去って行った。
その姿は、まるで子供の頃に見たおもちゃの兵士のように、寸分違わぬ規則正しい足並みで、これまで感じたことのないようなある種の尊敬の念が生まれた。
「お母さん、明後日の演奏会見に来てくれるよね?」
「もちろん、見に行くわよ。あなたを置いてここを出るとでも思った?」と笑いながら言った。
「ううん。でもちょっと心配になっただけ。」
「明日、明後日と、身の周りに危険が起きないように、そして、演奏会が大成功するように、一緒に祈りましょう。」
「うん、明後日はきっと素晴らしい演奏会になると思うから、楽しみにしていてね。」
ローソクに火を灯して、母と私は心静かに祈りを捧げた。

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